2009/09/26

黒アゲハ

 原稿が一応書き終わり、小野田寬郞さんのチェックも終了し、出版社探しも進行している。そんな中、近所の「氷川神社」によく出かけるのだが、奥宮に行くと、必ず大きな黒アゲハがどこからともなく飛んでくる。黒アゲハは奥宮にしかいない。どうやらここが「聖域」らしい。しかし、アゲハが飛んでくるのは、「氷川神社」だけではない。他の神社でも飛んでくる。

 先日、わたしたちに名草戸畔について調べるように行ってきた張本人Mさんと、久しぶりに会った。彼女の直感は、理由はよく分からないが、得体の知れない威力がある。何しろ、Mさんの言うとおりに和歌山に行った途端、伝承保持者の小薮繁喜さんに偶然出会うという事態が起こったのだ。そのMさんに黒アゲハの話をすると、彼女は震え上がってしまい、「それは名草戸畔だ!」といってきかない。彼女はいつも、こんな感じなのだ。しかし、いわれてみれば、黒アゲハをはじめてみたのは、約三年前、名草山の吉祥水のところで小薮さんに初めて出会ったときだった。どこからともなく大きな黒アゲハがやってきて、わたしたちのまわりを楽しそうに飛んでいた。わたしは、その光景を呆然と眺めていた。



【八雲の氷川神社】

2009/09/24

理趣経の語り手

『理趣経』によると、密教の教典には、興味深い点がほかにもたくさんある。わたしが興味を引かれたのは、お経に登場するキャラクターについて。
 松長氏の解説によると、説法をするのは本来、釈迦(しゃか)のはずだが、理趣経や大日経、金剛頂経など、中期密教の教典は、大日如来(だいにちにょらい)の教え、ということになっているそうだ。つまり、実在の人物であった釈迦ではなく、大日如来という架空のキャラクターが教えを説いているのだという。

 大日如来は、その名の通り、日の光のように絶対的な真理という意味。それは、他に比べて完全というように相対的なものではなく、絶対的な真理ということだ。(太陽はこうした概念の象徴になることが多い。神道の天照大神も同じような意味だろう。)すると大日如来は、真理そのものなのだから、自分でものを語らないはずだ。正確には、釈迦が大日如来の概念について説法したはずなのだ。しかし理趣経では、釈迦ではなく、大日如来が説法をする。なぜかというと、そうすることによって、釈迦という個人を超えた普遍の真理を表現できるからだ。突き詰めて考えると、真理は釈迦が生まれる前から「常駐」していたはずで、釈迦がその真理を発見した、ということになる。すると、いっそのこと、釈迦より大日如来に説法をしてもらったほうが、より説法の普遍性が際だつ、というわけだ。

 こういうと、えらく高級な話をしているように聞こえるかもしれないが、この考え方はエンターテイメントの世界ではごく普通のことだ。たとえば『スターウォーズ』には、悪の象徴のダースベイダーや、生を育むプラスの象徴であるフォースの騎士が登場する。これらは本来、人の心に棲む様々な属性を極端に表したものであり、人そのものではない。考えてみればあんなに極端な人はそういない。しかし、属性を体現したキャラクターたちのドラマを描くことによって、日常生活では見えにくい真実を物語の中に閉じこめることができる。しかし、タレントなどリアルな人に心の属性について語ってもらっても、その人の人気がなくなった途端、内容まで忘れ去られてしまうだろう。それは、宗教のように、何千年も伝わるものではないし、一部の作品のように何百年ももつものではない。つまり実在の人物に限定すると、ものごとには普遍性がなくなってしまうのだ。仏教の考え方は、決して日常から遠いものではなく、普段楽しんでいる映画や小説などにも現れているといえる。

 新興宗教は、普遍化した真理というより、教祖の観相した世界が中心となっている。教祖は自分自身の霊能で観たことを、確信をもって語っている。借り物の知識ではなく、自分でこうと感じたものを語るのはよい部分もあるかもしれない。しかし、これでは「あの教祖様はすごい」という具合に、内容より「人」が先に立ってしまう。すると教祖の「我」が出てくるのも致し方ない。ヒーラー、チャネラーの人たちも、同じことがいえるような気がする。わたしが『理趣経』を読んで思ったことは、近代のスピリチュアル・ムーブメントは、何千年も積み重ねて普遍化されてきた仏教とはずいぶん違うのだな、ということだ。

2009/09/23

『理趣経』松長有慶・著



『理趣経』松長有慶・著


 理趣経(りしゅきょう)とは、密教教典に含まれているお経のこと。この本は、密教と空海研究で有名な松長有慶氏が書いた理趣経の入門書。なんでも理趣経は、セックスについて書かれたお経ということで、好奇の目で見られることが多いらしい。この本は、そういった理趣経の表面的なイメージを取り払い、本当の理趣経について、松長氏がわかりやすく解説したものだ。

 理趣経は、セックスなど人間の欲望について書かれているため、仏教(密教)の中では異端のように見られているという。しかし密教には、元々、仏教によくあるような禁欲的なムードはあまりない。かの有名な空海は、山へこもって修行をすると同時に、権力者のために祈祷を行うなど、現世的な仕事もこなして仏教を広めていった。だからわたしは、最初から、「密教とは聖と俗の両方を合わせもつもの」という印象をもっていた。案の定、理趣経は、セックスに限定せず、人間の「欲望」に向き合っているお経だった。欲望を否定して様々な悩みを乗り越えようとする仏教のアプローチとは違い、欲望に向き合うということがこのお経のテーマなのだ。

 たとえば、「欲」について、理趣経ではこう考える。あれが欲しい、これが欲しいという欲望は限りがないので、いくら買っても満足がいかない。このために人間は苦しむことになる。しかし理趣経では、こうした欲を無闇に否定しない。そんな小さな物欲で満足していてはつまらない、もっと「大きな欲」を育てればいい。たとえば、自分だけではなく、まわりの人たちもみんな幸せにしてあげよう、という大きな欲望を育てよう、という。欲望は「生のエネルギー」なのだから、それを否定してははじまらない、ということだ。理趣経は、生に向き合うことが基本の考え方になっている。

 こうしたことをふまえてこの本を読んでいくと、今まで耳にしてきた仏教の概念とずいぶん違う解釈がたくさん出てきて面白い。たとえば、「利益」という言葉の意味も、今まで聞いてきたことと違う。わたしは、利益とは、「現世利益」という言葉にあるように、この現実の世界でお金を儲けるための祈願のように思っていた。つまり、単純に物欲を肯定しているようなイメージだ。ところが理趣経では、「利益」とは、価値という意味。すべての人には価値があるので、それを見出していこうということ。また、「平等」の意味も、今までの固定概念をくつがえしている。平等は、同じ数だけもらえるといった意味ではなく、すべてのものが等しいという意味。自分も仏も本来は平等である、ということ。

 理趣経の世界では、様々な悩みや葛藤や欲をすべて認めた上で、人の心は本来「清浄」と説く。こういう本を読んでいれば、おかしな新興宗教やヒーリングにはまることなく、本来のスピリチュアルを堪能できると思う。