2012/09/15

『小梅さんの日記』を読みました

『小梅さんの日記』
小梅日記を楽しむ会/著(企画構成・中村純子 文・山上祥子 絵・芝田浩子 協力・わかやま絵本の会)

 「小梅日記」とは、幕末から明治を和歌山に生きた、川合小梅さんという女性が残した日記のこと。現在では、近世の和歌山を知る貴重な文献資料となっている。この本は、その「小梅日記」の一部を、平易な文章と現代的な挿絵で紹介したものだ。本文に目を通すと、当時の和歌山の文化や暮らしや風景が浮かび上がってくる。

 たとえば、嘉永六年(1853)一月二十日の日記には、ご療養中だった治宝公(はるとみこう)がお亡くなりになったとある。治宝公とは、第十代藩主徳川治宝のことで、『紀伊続風土記』や『紀伊名所図会』をまとめるように命じた人物。和歌山の教育や文化を大切にしたお殿様として知られる。川合小梅さんのおじいさんは、紀州徳川家に仕える学者だったそうで、小梅さん自身も絵と和歌の才能に優れ、晩年まで活躍したという。そんな小梅さんにとって、治宝公の帰幽は大きなニュースだったのだろう。淡々とした日常と紀伊国の歴史が重なりあう瞬間が面白い。

 名草戸畔(なぐさとべ)について調べていたとき、和歌山市海南市をはじめ、紀の川北岸など、いろいろな地域に足を伸ばして調べたので、小梅さんの活動範囲は興味深いものばかりで、書いているとキリがない。たとえば小梅さんのダンナ様の豹蔵さんは、川合家に婿入りして川合姓を名乗っているのだが、この母系を大事にするところも何とも和歌山の雰囲気だなと思う。母系を名乗る記録は、太田亮(姓名研究)の紀氏の項を目を皿のようにして読んでいるとよく出てくるので、とてもリアルだ。

 また、小梅さんの氏神様であった「朝椋神社(あさくらじんじゃ)」は、延喜式に記録のある古社で、かつてはクスノキの巨木があったらしい。明治九年(1876)七月一日の日記では、「今日から、表橋の水野殿の娘さんに、毎日習字や絵などを教えに行くことになった。朝椋神社に参ってからお宅まで出かける」とある。この一文から、氏神様にお参りすることが、今のようにスピリチュアルなどと意識せず、「日常そのもの」であった当時の空気が感じられる。

 わたしがとくに好きなのは、安政六年(1859)四月三日の日記。荒浜に潮干狩りに出かけた楽しい日の出来事だ。当時は、市内を流れる紀の川の細い支流を船で下り、河口の荒浜まで行っていたようだ。車も自転車もない時代、水路が交通手段だったのだろう。お弁当を持って船で川を下って浜辺に出て、穏やかな和歌浦で潮干狩りを楽しむ光景は、縄文から弥生時代の名草戸畔の頃から、あまり変わらない景色だったのではないだろうか。もちろん、それは想像にすぎないのだけれど、わたしは、縄文から近世まで脈々と続く、名草(和歌山)の美しい風景を幻視したような気持ちになった。このシーンが大きく見開きページをとって描かれているところを見ると、小梅さんの日記を読んだ作り手の皆様もそう感じたのではないだろうか。

 奥付のページを見ると、多量の参考文献が掲載されている。挿絵を描いた芝田浩子さんは、『紀伊名所図会』に色をつけて現代に蘇らせた『カラーで読む『紀伊名所図会』』シリーズの作画を担当されたイラストレーター。本を手にとって、パラパラめくっただけでも、江戸時代の和歌山の空気がふわりと漂ってくるようだ。「小梅日記を楽しむ会」の方々の、貴重な文化を受け継ぐ素晴らしいお仕事に感銘をうけた。皆様もぜひ、ご覧ください。


わかやま新報掲載記事
http://www.wakayamashimpo.co.jp/2012/07/20120729_16262.html


なかひらまい拝
2012年9月15日

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