2013/05/13

和歌山来訪日記01:講演会の思い出

和歌山来訪日記01:講演会の思い出


 撮影:堀田賢治


 2013年5月5日。講演会「なかひら まい 小野田寛郎 名草戸畔を語る」が行われた。小野田家のご親戚でもある、加藤一郎氏を司会に迎え、小野田寛郎氏に代々、小野田家で語り継がれててきた名草戸畔伝承について語っていただこうという講演会だ。主役は、もちろん小野田寛郎氏だ。なかひらの名前が頭にきているのは、名草戸畔伝承の本を書いたからということで、そうなったにすぎない。
当日は500席が、ほぼ完売、満席となった。前売りチケットの時点ではまだ残りがあったので、当日の短時間のうちに満席になるとは予想しておらず、大変驚いた。大勢のみなさまにお休みの中ご足労いただき、改めて感謝を申し上げます。

 神武東征以前に名草地方(現:和歌山市海南市)を治めていたと伝わる、女性首長・名草戸畔。小野田家の口伝によると、神武と戦って戦死はしたものの、軍を追い払ったという。文書には書かれず、口伝によって語り継がれてきたこの物語は、江戸時代後期の『紀伊名所図会』『紀伊続風土記』といった地誌にも書かれていない。思想統制は厳しかった江戸時代に、幕府が紀州藩に作成を命じた地誌に、皇軍に逆らったとされる名草戸畔伝承について記載することはできなかったようだ。本にも書き、講演会でもお話したが、名所図会の方には、そうしたご時世にせめて土地の伝承を潜り込ませようとしたのか、殺されていない名草戸畔の絵が描かれている。和歌山市在住の郷土史家・小薮繁喜氏が70年に渡って保存していた、昭和9年に書かれた、名草小学校の演劇の台本「名草戸畔」にも、名所図会とよく似た殺されていない名草戸畔が描かれている。
 つまり、名草戸畔伝承は、かつて名草の土地では皆が共有していたと思われる。しかし、ついぞ地誌のような「公式の文書」に記されることはなかった。その理由は、あくまで国が作った歴史が正史であり、他は歴史ではないという、ひとつの「思い込み」によるところが大きいと思う。小野田氏も語っていたように、中央と現場(王権と名草にも置き換え可能)では状況がちがっているなど、歴史は、立場によって姿を変えるものだ。どちらが正しく、どちらが間違っていると言うことではない。神武に負けなかった伝承が存在してはいけない理由はない。だからこそ、名草では、公に言えなくても、名草戸畔伝承はお茶の間や地域の中で語り継がれ、名草小学校の演劇の台本に書かれ、決して途絶えることはなかったのだ。

 そんな名草戸畔伝承の変遷において、最後の伝承保持者である小野田寛郎氏のこの講演会を、テレビ和歌山と和歌山放送が主催し、和歌山県・和歌山市・海南市に後援していただいた意味は大きい。土地の伝承が「パブリック」な形で伝えられたことになるからだ。様々な時の事情によって成し得なかったことが、2013年になって、とうとう実現したのだ。著者としても本望である。これで、わたしの役割は終わった、一区切りがついたと思う。改めて、お世話になった各関係者の皆様に感謝を申し上げます。

 講演会では、91歳になる小野田寛郎氏が、名草戸畔の時代から江戸時代を通り越し太平洋戦争の時代になっても、権威に寄り添わず、自分たちで工夫して生きていく紀州人について始終愉しそうに語ってくださった。負けなかった名草戸畔の精神は今も生きているのだ。さらに踏み込んで考えると、負けなかった名草戸畔の伝承を、いっときのご時世によって曲げたり捨てたりする必要などないことを見抜いていた(つまり本質を見抜いていた)名草地方の人たちのクレバーさこそ、名草戸畔の精神だと思うのだ。小野田氏のお話からも、そんな思いが伝わってきた。

 最後に、体調が優れず会場にお越しいいただくことが叶わなかった小薮繁喜氏にかわって、息子さんの真一氏に朗読していただいた繁喜氏のメッセージを改めてご紹介したい。

「名草戸畔は、あがらのことやいしょ」
(名草戸畔は、わたしたちのことではないだろうか)


なかひら まい
2013年5月13日



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