2009/09/23

『理趣経』松長有慶・著



『理趣経』松長有慶・著


 理趣経(りしゅきょう)とは、密教教典に含まれているお経のこと。この本は、密教と空海研究で有名な松長有慶氏が書いた理趣経の入門書。なんでも理趣経は、セックスについて書かれたお経ということで、好奇の目で見られることが多いらしい。この本は、そういった理趣経の表面的なイメージを取り払い、本当の理趣経について、松長氏がわかりやすく解説したものだ。

 理趣経は、セックスなど人間の欲望について書かれているため、仏教(密教)の中では異端のように見られているという。しかし密教には、元々、仏教によくあるような禁欲的なムードはあまりない。かの有名な空海は、山へこもって修行をすると同時に、権力者のために祈祷を行うなど、現世的な仕事もこなして仏教を広めていった。だからわたしは、最初から、「密教とは聖と俗の両方を合わせもつもの」という印象をもっていた。案の定、理趣経は、セックスに限定せず、人間の「欲望」に向き合っているお経だった。欲望を否定して様々な悩みを乗り越えようとする仏教のアプローチとは違い、欲望に向き合うということがこのお経のテーマなのだ。

 たとえば、「欲」について、理趣経ではこう考える。あれが欲しい、これが欲しいという欲望は限りがないので、いくら買っても満足がいかない。このために人間は苦しむことになる。しかし理趣経では、こうした欲を無闇に否定しない。そんな小さな物欲で満足していてはつまらない、もっと「大きな欲」を育てればいい。たとえば、自分だけではなく、まわりの人たちもみんな幸せにしてあげよう、という大きな欲望を育てよう、という。欲望は「生のエネルギー」なのだから、それを否定してははじまらない、ということだ。理趣経は、生に向き合うことが基本の考え方になっている。

 こうしたことをふまえてこの本を読んでいくと、今まで耳にしてきた仏教の概念とずいぶん違う解釈がたくさん出てきて面白い。たとえば、「利益」という言葉の意味も、今まで聞いてきたことと違う。わたしは、利益とは、「現世利益」という言葉にあるように、この現実の世界でお金を儲けるための祈願のように思っていた。つまり、単純に物欲を肯定しているようなイメージだ。ところが理趣経では、「利益」とは、価値という意味。すべての人には価値があるので、それを見出していこうということ。また、「平等」の意味も、今までの固定概念をくつがえしている。平等は、同じ数だけもらえるといった意味ではなく、すべてのものが等しいという意味。自分も仏も本来は平等である、ということ。

 理趣経の世界では、様々な悩みや葛藤や欲をすべて認めた上で、人の心は本来「清浄」と説く。こういう本を読んでいれば、おかしな新興宗教やヒーリングにはまることなく、本来のスピリチュアルを堪能できると思う。

2 件のコメント:

  1. 人も仏も平等であるというのは
    私のスピ観に一致します。昔、道歩いているときに
    イエスのことをふと考えたら「友よ」という声が
    聞こえてきたんです。その時はかなり戸惑いましたが
    様々な本を読んでいるうちに意味がわかりました。

    神に上下などない。人も神も平等と思えば
    それなりの現実が現れる。

    おがまられるだけでは不満で、
    もっと身近な存在と思ってほしい。

    たとえばこの世のすべては神そのもの。
    働きだけではなく原子・素粒子に至るまで
    神でないものはない。

    って。

    神を友人として捉えれば
    世界観が変わるんでないかと。

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  2. 凛の風さん、こんにちは。
    素敵なコメントをありがとうございます。

    >おがまられるだけでは不満で、
    >もっと身近な存在と思ってほしい。

    神は自分でもあるし、他のものでもある、
    という境地があるとよくいわれますが、
    「身時かな存在」とは、
    そういうことなのかもしれないですね。

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