2011/12/05

妖怪とスプーと金壺堂~後編~

「新井薬師にあるカフェで妖怪講座をやっているので、ぜひ、いらしてください」
 7月のある日、こんなメールが届いた。送り主は、甲田 烈先生。そういうわけで、わたしは7月29日金曜日の夜、新井薬師駅に向かった。駅はどことなく寂れていて、ホームの横には墓場鬼太郎を彷彿とさせる雑草だらけの庭らしきものがある。場所からして妖怪臭い。わたしは、何がおこるのかよくわからないまま、商店街の地下にあるカフェ、JUNCTION CITYの扉を開けた。広々とした小綺麗なカフェで少し安心した。

 甲田先生は、このカフェで毎月レギュラーで、妖怪講座を開いている。講座では、妖怪テケテケや河童やツチノコなど、妖怪別に井上円了やメタ理論、仏教哲学などを縦横無尽に応用した甲田烈の妖怪論が展開される…のだが、これは後でわかったこと。

 この日、講座の始まる小一時間ほど前に伺うと、甲田先生から、白い冊子を3冊、手渡された。題して『開示される迷信ー井上円了の<妖怪>論をめぐってー』(相模女子大学紀要 第69号A 2006年3月5日)、『迷信から正神へー井上円了と森田正馬をめぐってー』(相模女子大学紀要 第71号A 2008年3月5日)、『井上妖怪学の現象学的転回』(相模女子大学紀要 第73号A 2010年3月5日)。井上円了妖怪学をめぐる論文三部作だ。
「これをお読みいただければ、わたしの研究がだいたいわかります」
 どうも、完全に「わかる人」と思われているもよう。あの名刺の絵を見ただけなのに。かなり直感的な人らしい。

 とはいえ、わたしも井上円了ぐらい知っている。円了といえば、妖怪や幽霊は、枯れ葉が揺れる物理現象を幽霊と思いこんだり、闇夜で恐怖を感じたときに見える何かであって、実体ではないと看破し、否定していった妖怪博士だ。しかし、否定しつくした暁に、人の心に妖怪を感じる「心」が在ることは現実のことである、と理解した人。だから円了というと、民俗学などのスタンスからだと爪弾きにされがちだが、ひじょうにクレバーな人、という認識はあったけど、それぐらいのことしか知らなかった。わたしはぼんやりと、日本の心理学の元祖みたいなものかな、と思っていた。甲田先生は、その円了を研究している。

 家に帰ると、さっそく論文を拝読した。なんだか、宿題を出された子どもみたいだ。すると、井上円了のスタンスが、実質、哲学であり、妖怪研究はそこに内包されたものだということがわかってきた。結論から言うと、そこには民話や怪談と論理的な哲学が違和感なく融合した世界があったのだ。論文そのものを読んでいただいた方がわかりやすいので、一部、引用させていただく。

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(井上円了の引用)妖怪学は哲学の道理を経とし緯として、四方上下に向かいてその応用の通路を開達したるものなり。もし哲学の火気を各自の心灯に点じきたらば、従来の千種万種の妖怪、一時に雲消霧散し去りて、さらに一大妖怪の霊然としてその幽光を発揚するを見る。これ、余がいわゆる真正の妖怪なり。この妖怪ひとたびその光を放たば、心灯の明らかなるも、これとその力を争うあたわずして、たちまちその光を失うに至るべし。あたかも旭日ひとたび昇りて、衆星その光を失うがごとし。仮にこの大怪を名付けて、これを理怪という。余の妖怪研究の目的の、仮怪を払い去りて真怪を開き示すと唱うゆえん、ここに至りて知るべし(井上円了『妖怪学講義』16 東洋大学1999年 22〜23p)
 妖怪学はまず哲学である、と円了は明言している。哲学の応用は、生死に迷う暗い心にあたかも光り輝く灯火をかかげるような機能を果たすだろう。そのとき、従来「妖怪」として捉えてきた心理・物理・物心相関的(※)なそれは、闇が光にかき消されるように消え去ってしまう。しかしそこに現れる光は、一切の不思議な物事が死滅した現実世界ではない。「真正の妖怪」が光の中に立ち現れるのである。この「霊然とした幽光」を放つ大妖怪への通路を「開達する」のが妖怪学としての哲学であり、それは「仮怪を払い去りて真怪を開き示す」ことなのである。
 ここで注目されるのは、物・心・物心相関という認識論上の妖怪の区分に加えて「仮怪」「真怪」という人間が志向する「開達」のプロセスとしての分類整理が提示されていることであろう。(中略)
 「仮怪」から「真怪」へと向かうプロセスは、実は伝統的な仏教において示されているような「転迷開悟」のことなのだと円了は考える。悟りの意識が開かれたとき、「心体」は無限絶対なものであることが体得される。それは有限な仮象としての「仮怪」を自己の内に映し出し、多くの妖怪現象として活動しているのである。しかしその「仮怪」の裏に、「真怪」が求められなければならないのである。
(『開示される迷信ー井上円了の<妖怪>論をめぐってー』相模女子大学紀要 第69号A 2006年3月5日 甲田烈)

※井上円了による妖怪分析。円了の時代は、妖怪とは、現在のようにキャラクター化されたものではなく、不思議な現象そのものを指す言葉だった。鬼火のような発光物質によるものを「物理」、霊夢のように心理的要因は「心理」、こっくりさんや魔術なども「物心相関的」な妖怪現象と分類していた。(なかひら注)
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 妖怪とは、心を映す鏡であるということだ。円了は、妖怪の実在の有無を問うたのではなく、妖怪を感じ取る心の働きに着目したのだ。もうひとつ、論文を抜粋する。

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 このように、井上の妖怪学は、妖怪現象を物理や心理といったさまざまな角度から分析して、その「原理」としても「真怪」に達すること、あるいは、人間の認識におけるその開示と仮象としての妖怪現象からの転換を目的としたものである。これは民俗学におけるような、「文化現象としての妖怪」の探求とは異なり、むしろ「妖怪」の探求を媒介とした、われわれの意識構造の変容を目的としていたと考えられるであろう。そのことは「真怪」の別名が、無名・天・太極・真如・神といった世界の諸宗教における究極の存在根拠と比定されていることからも知られよう。
(『井上妖怪学の現象学的転回』相模女子大学紀要 第73号A 2010年3月5日 甲田烈)
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 井上円了は、妖怪否定論者として知られているが、実際には妖怪を題材に、仏教など宗教も含めた哲学的考察を深めていった人であった。円了自身、山や森や墓場や家々に溢れる不思議な現象とともに生きていたのであり、それらを心の外に追い出していたわけではなかったのだ。女性的な民話と透徹した論理が矛盾なく共存している世界がここにある。それは、細かくジャンル分けされて、いろんなものがバラバラになった現代にはない、豊かな心性だ。
「円了は、北枕で寝てみたり、幽霊画を集めるのが趣味でした。妖怪や幽霊が大好きだったんです」
 と甲田先生はいう。

 そんな甲田烈先生が、『スプーの日記』の世界を哲学で読み解いた記事を書いてくださいました。12月8日は、甲田先生と哲学と妖怪、妖精や、魔法の楽しいお話をしたいと思っています。哲学で遊びましょう!

【オープニングイベント】
哲学者・甲田烈×なかひらまい対談
「魔法とモノノケの裏表~『スプーの日記』の世界で遊ぶ~」
12月8日(木)19:00開演
参加費:600円+スプーの薬膳ハーブティーセット800円
参加申し込み:03-6804-9044(金壷堂)
メールお申し込み:info@kinkodou.com
http://kinkodou.com/index2.html

【スプーの日記2011〜ありがとう!またまたアンコール展】
会期:2011年12月8日(木)〜15日(木)12:00〜19:00
会場:代々木上原・金壺堂(きんこどう)
入場料:スプーの薬膳ハーブティーセット800円
(紫色の薬膳ハーブティー、ポストカード、ハンドメイドクッキー付)
東京都渋谷区大山町43-9 NUMATA HOUSE2
tel:03-6804-9044
メールお申し込み:info@kinkodou.com
http://kinkodou.com/index2.html

甲田烈先生の著作はこちらです。
『手にとるように哲学がわかる本』甲田烈

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