2010/09/27

モザイクの話




 わたしの姉AMI NAKAHIRA MARISIは、イタリア在住のモザイク・アーティストだ。モザイクとは、様々な色の石を小さな四角いピースにカットし、そのピースを平面に配置して絵を描く美術工芸のこと。紀元前から続くヨーロッパの伝統工芸だ。現在、姉はイタリアのリッチョーネという町に住み、モザイク作品の制作や、古い教会などにあるモザイクの修復、モザイク教室などの仕事をしている。この写真は、リッチョーネにある教会に依頼されて床に制作した作品。先日、スカイプで姉と話す機会があったので、モザイクの歴史などについて聞いてみた。すると姉はモザイクの歴史や宗教との関わりなどを丸暗記しているではないか。そのオタクぶりに脱帽。面白いのでメモをとって、ブログにアップすることにした。(メモの範囲なので、多少情報に間違いがあるかもしれませんがご了承ください。)

 姉によると、モザイクの発祥はチグリスユーフラテス文明に遡る。4000〜5000年前の「バビロニアの柱」が世界最古のモザイク作品といわれているそうだ。この柱には、石のモザイクが施されている。古代のモザイク職人は奴隷身分だったが、有給だったため比較的身分は高い方だった。トルコ・イスタンブールやエジプトのアレキサンドリア王国などに、モザイクの工房があった。モザイク作品は、神殿や教会に象徴的な意味を込めて作られた。イタリアには、紀元前2〜1世紀ぐらいのものとされるアレキサンドリア大王の征服を描いた石モザイクが今も残されている。

 紀元前300年ぐらいになると、ヘレニズム様式のモザイクが生まれる。ヘレニズムとは、アレキサンドリア大王が西欧と東のオリエントを統合することによって生まれたともいわれる。古代ギリシア文化の黄金時代だ。当時のモザイクは、石だけでなくガラス製もあったそうだ。ガラスは石のように天然ではなく、人工的に作ったもの。透明なガラスは弱いので、金属などを混ぜて透明度を落としたガラスを使うそうだ。このガラスモザイクを作っていたのは主にフェニキア人らしい。フェニキア文明とは、エジプト、バビロニアなどで紀元前15世紀ごろから紀元前8世紀ごろまで繁栄を極めた古代オリエント文明のこと。このフェニキア文明は、アレキサンドリア大王の西方と東方の統合によって、ヘレニズム文明に取りこまれていったらしい。フェニキア人によって、都市の神殿にガラスモザイクが施されたという。しかし、ガラスは土に埋まると組織が崩壊してしまうため、遺跡はほとんど残っていないそうだ。
 石やガラスのモザイクは、こうしてヘレニズム文化の中で栄えていった。紀元前一世紀ぐらいまで、石のモザイクは主に黒い石を使ったモノクロの作品が作られた。



 ところが、ギリシアからローマ時代へ移行するにつれ、作品のモチーフに変化がみられるようになった。多神教的な神々の神話が語られていたギリシア文明時代は、地の女神ビーナスや、バッカスの象徴であるブドウやブドウの葉、アカントという植物の葉など自然のモチーフが中心だった。ギリシア文明は、母系的で自然を擬人化した神々を表現する文化だった。日本でいうと八百万の神の感覚に近い。この写真モザイクは姉の習作だが、アニミズムを思わせる魚のモチーフは古代のモザイクではポピュラーなのだそうだ。 ところがローマ時代にはいると一神教の色が強くなり、ブドウはバッカスではなく、葡萄酒=生命の象徴(キリストの血)といった抽象的なイメージに変化していった。こうした時代の流れによって、モザイクのデザインも変わってきた。

 モザイクは、紀元前3世紀ぐらいまで、主に建物の床に作られていた。以後、教会が増え始めると、モザイクによる天井画(フレスコ画)が登場する。キリスト教により、地につながる床より天が神聖と考えられるようになったためらしい。ローマ市の東北にある、サンタ・コンスタンツァ教会の天井モザイクが有名だ。4〜5世紀になると、トルコ人やフェニキア人に続いてベネチア人が金属や鉱物を混ぜたガラスによるモザイクを作るようになる。あまり古い時代ではないガラスモザイクの遺跡は見られるかもしれない。

 石のモザイクは、何千年も劣化せずに残るため、「永遠」の象徴と考えられる。そのせいか、バチカンのサン・ピエトロ寺院には、モザイクで作られた法王の作品があるそうだ。法王の絵は最初、絵画で制作されていたが、キリスト教を永遠に世に伝えていこうという宗教的な意味を込めて、次第にモザイクで作られるようになったという。

 姉が西欧の石文化にはまった理由は、モザイクに見られる永遠の思想だった。一時の流行ではなく、末永く世に残すべきものを伝える文化が気に入ったらしい。わたしも末永く残る普遍的なファンタジーを目指している。どうやら似たもの姉妹らしい。


姉が作ったスプーのモザイク