2011/01/31

精霊画家になる!



南の島のジャングルに棲む精霊モーピー。今日は、ポストカードサイズでは飽きたらず、F6サイズで描いてみた。額がないので、写真は部分をデジカメで撮影したもの。

いっそのこと、精霊の絵を描く人になりたい。「精霊画家になる!」。そう言っていると実現するらしい。たぶん、世の中、変な人の勝ち、だと思う。

2011/01/30

『初期天皇后妃の謎』大山元/著



 名草戸畔(なぐさとべ)の本を出した途端、古代史などの研究者や古代史マニアの方々から感想やご意見のメールをいただくようになった。大山元氏は、真っ先に読んで下さった方の一人だった。大山氏は、アイヌ語、縄文語の研究をされている。わたしも以前から大山元氏のウェブサイトをたびたびチェックしていたので、メールをいただいて驚いた。『初期天皇后妃の謎』は、「欠史八代」をテーマにしていたので、興味がわいて即、購入した。
 神武天皇と崇神天皇の間の八人の天皇については詳しい事績が書かれていないため、一般に「欠史八代」と呼ばれている。つまりこの時代は、古代史における空白の時代なのだ。いろいろ調べるにつれ、この時代はまだ縄文人と大陸の人たちが渾然と混ざり合って暮らしていたように思う。わたしは常々、記紀は何らかの事情で、この時代のことを詳しく書かなかったのではないか、妄想していた。だから「欠史八代」というといても立ってもいられなくなる。
『初期天皇后妃の謎』では、欠史八代の天皇后妃、つまり女性の名前の一部が子に引き継がれている(母系名称総称)ことを発見した。たとえば、神功皇后の諡「オキナガタラシ姫」にみられる、タラシが継承されている様子などだ。系図は男系で書かれていても、縄文時代の母系社会の痕跡が系図上の「后妃の名前」にあらわれているという、新しい視座である。
『日本書紀』や各地の風土記に出てくる天皇や后妃の名前には、アイヌ語や縄文語などの古代語が含まれていることだろう。この本では、憶測は避けて淡々と資料を上げながら、古代語が名前に含まれている可能性について書かれている。

2011/01/27

夜のモーピー




夜のモーピー。木の幹に二人で、おしゃべりでもしているのだろうか。

写真ではよく見えないが、ホワイトパールで着色しているのでキラキラ光っている。背景は思い切って濃い青に。可愛らしくポップな感じになった。昨年の展示では、勢いで何枚も描いたため、色合いや構図がどれも似てしまった。今はいろんな色合い、タッチを試している。日々精進。

2011/01/26

地底の精霊



目には見えないが、本当は木の根の下には精霊の住処がある。何の機能があるのか知らないが、頭にはツノが生えている。この精霊は、もぐらのような動物と仲良くお茶を飲んだりしてのんびり暮らしている。あくせくしている人間とは大違いで、かなり優雅だ。クリスタルやルビーなど、光る鉱物をランプ代わりにしているらしい。たぶん、モーピーの一種だろう。……そんな妄想がふと頭をよぎって描いてみた水彩画。

どうして一見すると役に立たない、精霊の絵を描くのかというと、わたしにとってこれが唯一の「遊び」だからだ。オカルト文献を漁っていると、別次元の存在はそこかしこにいるのだけれど波長が合わないので人間には見えない、なんてことが書いてある。その見えない部分を想像して遊ぶのが楽しいのだ。
こういう精霊のビジョンは、最近では環境問題が深刻なため地球を守ろうといったメッセージともかぶってくるようだが、わたしは、そんなに真面目になるのも好きじゃない。スピリチュアルな人たちが地球を守る戦士よろしく、神社で祈りを捧げるのも違和感がある。自然に限らず何かをみて、普段からいろんなことを空想して遊ぶ心がなくなったから、自然を壊したりするようになったのではないか、と思う。

2011/01/25

月とスプー



今回は、『スプーの日記』シリーズの水彩画を描いてみた。月とスプーの構図が好きなので、いろんな絵を描いて試行錯誤している。額に入れると絵が引き締まってよい感じになる。

2011/01/21

地域の伝承02

 先日、兵庫にお住まいのYさんからお電話をいただいた。お送りしたナグサトベの本が届いたのだ。Yさんからは、兵庫県「馬止神社」の貴重な資料を提供いただき、「名草戸畔顛末記」に記載させていただいた。
「わたしの住んでいるところにも口伝があって、村で守っているんです。小薮さんが台本を守ってきた下りを読むと、似てるなあと思って…」
 電話の向こうから、Yさんの楽しそうな声が聞こえてきた。名草だけでなく、他にも口伝があるという話に、興味がわいた。
「口伝が? それはすごいですね」
「ええ、元は口伝だったものが筆写されて保存されてきたのです。それを母が借りてきて書き写したものを、わたしがパソコンに打ち込んでデータにして、ウェブサイトにアップしました。読んでくれた方から感想や『自分の住む町にも伝説がある』というメールをいただくこともあるんですよ」
 口伝の物語がいつの頃か筆写され、母から子へ受け継がれているという。村に伝わる物語が、そこに住む人たちに代々、守られているとは素敵な話だ。
 さっそくYさんのウェブサイトを拝見すると、あった、あった。タイトルは『掃部狼婦物語(かもん かか ものがたり)』
 ザッと目を通してみたが、昔の言葉や言い回しがそのまま書き写されているため、臨場感はあるが少し難しい。何とか冒頭を読んでみると、南北朝時代(十四世紀)に遡る物語であった。南朝が衰退したため、養父郡宿南の里へ逃れた掃部之助信季という人物の子孫に、田垣掃部がいた。第一章は、田垣掃部に到るまでの子孫の系譜から始まり、狼にまつわる物語が中心となっている。タイトルの「掃部狼婦(かもんかか)」はここから来ているようだ。全三章になる膨大な物語の中の、一章の一部を要約すると、次のようになる。

 頃は永享七年(一四二九)、掃部と妻の綾女や子どもたちが気晴らしに花見に出かけた。ウドやワラビなどを摘んでいると、地の底から狼の呻く声が聞こえてきた。近くをよく見ると、山の中に古い鹿の落とし穴があった。綾女が下男に入り口の草を取りよく見るようにいった。下男がおそるおそる穴をのぞき見ると、深い穴に狼の親子が落ちていた。
 弓矢で討ち殺そうという者もいたが、綾女は「狼のあやまりて穴に落ち入り苦しむを不憫とはとは思はずして、殺さんといふは、いかなる事ぞ」といって押しとどめた。狼は田畑に害をなす獣ではない。心優しい綾女は、殺すのは無益な殺傷と考えたのだ。綾女は狼に語りかけた。
「下なる狼よく聞き候へ、われは掃部の妻なるが、その方が難儀を見捨てて帰るに忍びず、助け得させんと思ふなり。必ずあやまりて人に害をなし候ふな」
 すると狼は光る目を閉じ、首をうなだれた。皆は獣が綾女の言葉を聞き分けることに驚いた。下男達が穴を掘って狼を助け出すと、狼は子を連れて林の中へ走り去った。
 不思議なことに、翌年の掃部の田畑には、猪や鹿による被害をうけることがなかった。皆は、先年、綾女が救った狼の守護と言いあったという。

 狼と人間の、持ちつ持たれつの関係が描かれた物語であった。「送り狼」など狼にまつわる民話は全国に数多く伝わっているが、ここまでドラマチックで面白い話はあまり読んだことはない。口伝によって系譜まで残されているため、掃部と綾女に実在感があるところも面白い。
『掃部狼婦物語(かもん かか ものがたり)』には、他にも、様々な物語が描かれています。みなさんもぜひ、読んでみて下さい。

2011/01/20

地域の伝承01

『名草戸畔 古代紀国の女王伝説』を出版してから、「自分の出身地の伝承を調べてみたい」という反応をいただくようになった。読者の方は、名草戸畔(なぐさとべ)伝承が和歌山市と海南市で生まれ育った小薮繁喜氏と小野田寛郎氏によって守られてきた経緯や和歌山の歴史を知ることによって、自分が暮らした土地に興味がわいたようだった。
 この本の原稿を持って出版社を回っていたとき、一番懸念されたのは、名草戸畔伝承が狭い地域に限定されたものであるため、他の地域に住む人たちが共感できるのか、ということだった。大和王権の成立を主題にして、その中に名草戸畔を絡めた方がいいという指摘もよくいただいた。しかし、王権を主題にした本は山のようにある。ローカルな伝承であることに開き直り、ストレートに名草戸畔を描くべきと考え、結局わがままにその主旨を貫いてしまった。ところが、実際に本を世に出してみると、読者は名草戸畔伝承を通じて、自分の故郷や自分の祖先のルーツに思いを寄せたり、全国によく似た伝承があることに気がついたのだった。ローカルな伝承を突き詰めたことで、かえって全国に繋がったのだ。大和王権を中心とした平均的な歴史を描いたら、むしろ誰の興味を惹かない内容になってしまったかもしれない。
「名草戸畔顛末記」(リアル書籍と電子書籍のみ収録)で、兵庫県の「馬止神社」の貴重な資料を提供していただいたYさんからも、面白い話を聞いた。なんとYさんの住む町には、南北朝時代から口伝で語り継がれてきた物語があるという。続きは明日。

2011/01/19

精霊モーピー



このイラストは、わたしが創作した精霊。名前は「モーピー」。名草戸畔伝承などを調べたり、木々が生い茂る場所へ遠足に出かけたりしているうち、ふと思いついて描きはじめた精霊キャラだ。モーピーの絵は、一昨年の12月に、原宿デザイン・フェスタ・ギャラリーで行ったHARIKEN氏とのコラボ展でも展示した。

モーピーとは、こんな感じの精霊だ。

モーピーは、南国のジャングルに生息しているらしい。ごくたまに、草木ばかりで何もいないはずのジャングルに、モーピーが見えることがある。鬱蒼と茂る森に迷い込んで、意識朦朧としたときなどに遭遇するようだ。モーピーは、夢時間を生きていた古代人には普通に見えていたようだが、現代人にはなかなか見えない。しかし、モーピーは相変わらす緑の森で楽しく暮らしている。人間には見えにくくなってしまっただけだ。

毎月、満月の日にスプーのメールマガジンにて、描き下ろし水彩画の待ち受け画像を配信します。第1回目は、明日20日、このモーピーの水彩画の待ち受けを配信します。メールマガジンの登録は、以下のサイトの一番下の登録フォームからどうぞ。

http://studiomog.ne.jp/nakahira/

2011/01/17

旧家の伝承

 名草戸畔について調べ始めてから、わたしのまわりに、口伝や伝承を受け継いでいる旧家の人が何人か集まってきた。
 その内の一人は、ディープな古代史マニアで知らない人はいない「丹生都比売神社(にゅうつひめじんじゃ)」に関わる貴重な話を伝えているK家のKさんだ。
 天野の里や高野山では、かつて丹生(にゅう)一族という謎の集団が暮らしていた。山の王「丹生明神(丹生一族の神)」が後からやって来た空海に高野山の土地を譲ったという有名な伝説がある。ところが土地の伝承はこれだけでは終わらない。丹生一族が和歌山に移住してくる前に、この土地に住んでいた先住の人たち(何故か大伴と呼ばれている)が丹生一族に土地を譲ったという。先住の人たちは、それまで山で猟などをして暮らしていたが、丹生一族から稲作などを教えてもらい、豊かに暮らしていけるようになったらしい。(丹生都比売は、一般には丹生(水銀を含む赤い砂)の女神と言われているが、K家の伝承では、単純に丹生の採掘を守る神ではなく、農耕や水など生活全般を見守る女神であったようだ。)
 これは、大伴→丹生→空海の二段階にわたる友好的な国譲りが行われたという伝説である。丹生については不明な点も多く、いろいろ複雑なのでここでは書ききれないが、後から移住してきた人たちが先住の人たちと折り合って共に生きてきたというのだ。和歌山では「渡来人が先住民を征服」的なありきたりな構図を覆す伝承を目の当たりにする。いや、よく調べれば、こういう物語は全国各地に残されているのかもしれない。ただ気がつかないだけで。
『名草戸畔 古代紀国の女王伝説』には書ききれなかったが、丹生氏は紀氏と深く交流していたため、名草とも関係がある。「丹生田殿神社」には、丹生大明神の御子神として大名草彦命が祀られている。

2011/01/16

古老の伝承05

 谷川健一氏は、『青銅の神の足跡』(集英社)で次のように書いている。

 歴史的時間のとりあつかいには二通りあるとおもう。一つは個人の意識とかかわりなく生起する政治や社会的条件、たとえば戦争とか政権の交替をあつかう場合である。このときの歴史的時間は一年やひと月というきめこまかい単位の厳密さが要求される。これに対して、十年一日のごとき生活をくりかえす常民の中に保持されてきた信仰や意識をとりあつかうときの歴史的時間は、親子、孫の三代、つまりほぼ一世紀をひとつのサイクルとしてくりかえすから、数世紀にわたる時間を単位としてもすこしもおかしなものではない。これを歴史学の立場から、厳密を欠くと非難することはあたらない。社会の表層に継起する激しく小刻みな時間のながれと、常民生活の意識の深層に流れる緩慢な時間は、それぞれが別の秩序に属する。古伝承の時間をあつかうのには、歴史学の厳密さとは別の厳密さが必要である。

 名草戸畔(なぐさとべ)伝承について調べはじめた当時は「果たして本当に古い伝承なのか?」と思ったこともあった。しかし小薮繁喜氏と小野田寛郎氏の口伝に関係する情報を集めるうち、谷川氏のいうように、常民生活の時間のながれのなかで伝わってきた物語であろうという結論に達した。

2011/01/15

古老の伝承04

 ところで、二〇〇六年に、わたしも和歌山市で、前述のように口伝と文献の両方の内容がよく似ているケースに出会った。
『名草戸畔 古代紀国の女王伝説』本文にも書いたが、わたしは和歌山市で、名草戸畔(なぐさとべ)が傷の手当てをすると騙して五瀬(いつせ)を討ったという言い伝えを聞いた。実は、この話は『宮下文書』『ウエツフミ』にも掲載されている。しかし、和田でこの話をしてくれた人が、この文書を読んでいるのかというと、そうともいえない。この二つの文書は、『日本書紀』とは違い、古史古伝の類だ。これを知っているのは相当な古代史好きと思われる。読むには、かなりの下知識も必要になる。
 なお、和歌山市では「神武の軍船が大量に押し寄せてきたが、名草軍が猛攻撃を加えた。神武軍は大変苦戦した」という話も聞いた。たしかこの話は二つの文書にはなかったと思う。
 和歌山市と海南市には、二〇〇〇年を過ぎてなお、神武東征伝承が生きているのだ。

2011/01/14

古老の伝承03

 谷川健一氏が「荒田神社」の番をしている老人から聞いたという話は、土地で語り継がれてきたものらしい。奈良時代初期に編纂されたという『播磨国風土記』がこれを採集して作られたのだとしたら、昔「荒田神社」近くに住んでいたという姥神は、道主日女命の子孫なのだろうか。
 この道主日女命は、海部家の『勘注系図』や『丹後国風土記』(残欠)に登場する天道日女命と名前がよく似ているのが気になる。天道日女命は、丹後国で天火明命(あめのほあかりのみこと=ニギハヤヒ)の妃となった人物。『勘注系図』によると、天道日女命は「オオナムチの女」とあるのでオオクニヌシ(先住出雲族)の出身らしい。子は天香語山命(あめのかごやまのみこと)だ。(註:『名草戸畔 古代紀国の女王伝説』には収まらなかったが、カゴヤマは出雲・紀国の五十猛(いたける)と同一人物との説もある。出雲族の姫とニギハヤヒの子であるところは、確かに同じイタケルと同じだ。)
 もし道主日女命と天道日女命が同一人物か、あるいは同じ一族であれば、「荒田神社」の姥神は、古代の王族の遠い子孫なのだろうか。だとしたら面白い。古代のロマンは現代にも息づいている。

2011/01/13

古老の伝承02

『青銅の神の足跡』谷川健一・著(集英社)にも、興味深い聞き取りが出ていた。谷川氏が兵庫県加美町的場の「荒田神社」の番をしている老人から、次の話を聞いたという。要約すると次のようになる。

 昔、このあたりに一人の姥神(うばかみ)が住んでいて、落葉清水と称する神泉から水を汲んではカビ(甘酒をあらわす方言)をこしらえて、神の御許に酒をささげ、お祭りをしていた。

 谷口氏によると、この老人の口伝は、『播磨国風土記』に見える、道主日女命(みちぬしひめのみこと)が生んだ子が酒をつくり、諸神を招いて宴会を開いたという話とよく似ているが、老人の語り口からは文書の模擬ではないという。老人の話は、おばあさんが甘酒をこしらえるという素朴なものだからだ。文書とは別に、この土地で今も残る伝説ではないか、ということだ。
 『青銅の神の足跡』は一九七九年の刊行なので、谷口氏が調査していたのは、七十年代以前だろう。その頃には、まだ各地に口伝が残っていたようだ。

2011/01/12

古老の伝承01

 わたしは昔から民俗や伝説の類が好きなので、何かの本でたまに、古老が語る口伝(くでん)の小さな断片を見つけると楽しくなって喜んでいた。
 たとえば、森浩一・網野善彦/著『馬・船・常民』(講談社学術文庫)には、こんな話が出ている。網野氏の知人が能登の調査に出かけたところ、地元のお年寄りが「昔、イルカがいっぱい来た」と語っていたという。その後、縄文時代の「真脇遺跡(まわきいせき:石川県鳳至郡能登町)で大量のイルカの骨が見つかったと聞いて、大変驚いたそうだ。
 お年寄りの言い伝えとイルカの骨は見事に相関している。すると、地元に古くから伝わる話が、縄文時代からかたちを変えずに連綿と伝わってきた可能性も高い。真偽を証明できないために研究論文に発表されないだけで、研究者の間では、実はこんな話がたくさんあるのかもしれない。