2011/01/16

古老の伝承05

 谷川健一氏は、『青銅の神の足跡』(集英社)で次のように書いている。

 歴史的時間のとりあつかいには二通りあるとおもう。一つは個人の意識とかかわりなく生起する政治や社会的条件、たとえば戦争とか政権の交替をあつかう場合である。このときの歴史的時間は一年やひと月というきめこまかい単位の厳密さが要求される。これに対して、十年一日のごとき生活をくりかえす常民の中に保持されてきた信仰や意識をとりあつかうときの歴史的時間は、親子、孫の三代、つまりほぼ一世紀をひとつのサイクルとしてくりかえすから、数世紀にわたる時間を単位としてもすこしもおかしなものではない。これを歴史学の立場から、厳密を欠くと非難することはあたらない。社会の表層に継起する激しく小刻みな時間のながれと、常民生活の意識の深層に流れる緩慢な時間は、それぞれが別の秩序に属する。古伝承の時間をあつかうのには、歴史学の厳密さとは別の厳密さが必要である。

 名草戸畔(なぐさとべ)伝承について調べはじめた当時は「果たして本当に古い伝承なのか?」と思ったこともあった。しかし小薮繁喜氏と小野田寛郎氏の口伝に関係する情報を集めるうち、谷川氏のいうように、常民生活の時間のながれのなかで伝わってきた物語であろうという結論に達した。

2 件のコメント:

  1. よく中国4千(5千?)年の歴史と言いますが
    日本はそこまで遡ると神々の歴史になるんでしょうか。

    権力の歴史と常民の歴史は違うってわかる気がします。
    まだ地方に権力が行きわたってない頃、自治区の一つとして
    穏やかに暮らしていたんでしょうね。

    言い伝えが世に現れる時、いくつものシンクロが垣間見えて
    面白いと感じました。

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  2. 民俗や古代史の本を読んでいると、
    断片的ですが、たまにこういう話に出くわします。
    面白いです。
    いくつものシンクロって素敵な表現ですね。

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